蜩の声

蜩の声

 とりわけ、言葉には用心しなくてはならない。はじめのうちは、人がいまさら仔細らしく話せるのが、奇妙でならない。話のとにかく通じるのが、かえって徒労に聞こえる。そのうちに自分も話に加わるようになると、言葉とは何と気楽に走るものか。まるで何事があっても平気な叔父さんか叔母さんが見舞に来てくれて、相変わらず呑気な調子で喋っているのを聞いて、こちらも楽になったような、そんな気がしてくる。しかしときおり、ちょっとした言葉にひっかかって、口ごもる。おかしな沈黙に押し入られまいとすぐに言葉を継いでも、あたりさわりもない話題なのに、人にはめったに聞かせられぬことを洩らすように、声をひそめられている。あぶない言葉は至るところに待伏せていて、その場の意味を裏返しにしかかる。「たすかる」だの、「いつものように」だの、「しかたがないので」だの。「あの花盛りの綺麗だったこと、目に焼きついて」とか……。
 追いつめられて身動きはおろか、顔を伏せることもそむけることもならず、目ばかりに、視覚ばかりになるという窮地もあるのだろう。これはもう対象化にならない。見る主体も失われる。恐怖の光景だけが細部までひとしくくっきりと見えて、なにやら明るいようになり、そしてこの時こそ、天地は底知れず静まり返る。犠牲者の多くが目を見ひらいたままでいたという地獄図はなかったか。しかし生きながらえた人間の、生きながらえるための業とも言える記憶にも、目ばかりになった静まりへ、かすかに通じるものが、ありはしないか。(p242-243)