千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

われは無敵なり。フロイトの狼男は、彼を見つめる狼の群れに魅入られている。狼が一頭いたとして、それがいったい何になるだろうか。鯨が一頭、シラミが、ねずみが、蠅が一匹いたとして、それがいったい何になるというのか。ベルゼブルは悪魔だが、無数の蠅たちの王であればこそ悪魔なのだ。狼は最初から一個の類別的特徴なので、いくつかの類別的特徴をとりまとめたものでもなく、狼の群れなのである。シラミもまた、シラミの群れであるように……。一つの叫び声は、その叫びの相手となり、証人となる集団と無関係だとしたら、いったい何であろう。ヴァージニア・ウルフは一匹の猿とか一匹の魚として自己を生きるのではなく、自分が接触する人々との可変的な生成変化の関係にしたがって、猿の大群として、あるいは魚の群れとしてわが身を生きているのではないか。われわれは特定の動物が群れをなして生活すると言いたいのではない。劣等な群れと高等な社会を区別するローレンツ流の滑稽な進化論的分類に同意する気は毛頭ない。われわれは、あらゆる動物がまず第一に集団
であり、群れであると言いたいのだ。(p276-277)

文庫だと中の162頁。