ドゥルーズを「活用」する

ドゥルーズを「活用」する

夢が滅びた後も日常が続くのなら、それを生きる決意としての嘘があってもよい。最後に残る虚構とは、生き延びた者たちが小津の映画に出てくる人たちのように静かに打つ相槌のようなものでなければならない。何も特別なものなどなかった。虚構の染みをきれいに取り除けば、そこに生々しい現実やら純粋な結晶が残るはずだなどという虚妄についてさえ何の裏付けもありはしなかったではないか。虚偽の向こう側に真実があるなどという虚構を今さら誰に信じろと言うのだろう。私たちは特別だと信じられたことすら、いかにもありふれたことであり、また呆れるほど凡庸であったことか……。あの戦いの日々にも、あの夢のような日々にも、そして砂を噛むような思いでひたすら苦悶に塗れた日々にも、そう、どこにも特別なものたどありはしなかったのだ。
しかし、そうであればこそ、今、慎ましい凡庸さにおいて開示されている生をこそ無条件に肯定せねばならない。たぶん……。(p143)