学問

学問

 せっかく得たものを逃がさないように、仁美は、体を揺らし続けました。あの時のように頬が熱くなって行きます。下腹と足の付け根あたりに、とろりとしたものが広がって行くようです。でも、それは、行き場を失って困っているようなのです。どうしてもらいたいの?と、泣きたい気持で問いかけたいのですが、声にはなりません。本当に、これは、いったい、どういうことなのだろう。病気?それはないと思います。だって、少しも具合なんか悪くないのですから。解りません。彼女に解っていたのは、これを始めたら、なかなか止められないという、そのことだけだったのです。胸がわくわくするという経験に慣れ親しんで来ました。けれども、今、胸よりもずっと下の方で、わくわくしているのです。お外に出て遊びたいよう、と何かが、そのあたりで、むずがっているのです。(p52-53)

生き方と哲学

生き方と哲学

論理哲学論考』の沈黙律は、大切なものについて語ることを「語りえぬことについて語る無意味な行為」とすることにより、沈黙が一つの倫理的次元を持つ一つの選択であるという事実を覆い隠す。すなわち沈黙するとは、それについて語りうるが、語ることによりその価値を減ずるよりは、あえて沈黙を守るという倫理的行為なのであるにもかかわらず、『論理哲学論考』はあたかもそれが客観的諸前提から論理的に導出される必然的事象であるかのように我々に考えさせる。『論理哲学論考』により隠蔽された沈黙の持つこの倫理的次元、それは言葉を使用することが常に持つ倫理的次元である。『論理哲学論考』から『哲学探究』への移行に伴って、ウィトゲンシュタインが沈黙と言葉の持つこうした倫理的次元をはっきりと意識したことは確実だと思われる。(p128-129)

文学 (ヒューマニティーズ)

文学 (ヒューマニティーズ)

絶滅収容所のような極限的な場所において文学は無力である。しかしそこで無用になるのは文学だけではない。精神的なもの、人間理性に関わるいっさいがなんの役にも立たないのである。にもかかわらず、レーヴィの例が示しているように文学は、地獄の底に沈みつつあった一人の苦しむ人間を支えることができる。その人を、悲痛や絶望を通して、彼と同様に苦悩する無数の人々と結びつける。文学とは何よりも「わたし」と「他者」とをつなぐものである。そして社会とは人と人とのつながりの場である以上、社会が社会であるために文学は何よりも必要とされる。逆の言い方をすれば、文学のないところに社会はない。文学の死はすなわち、人間社会の死である。(p162)

この謎が解けるか?: 鮎川哲也からの挑戦状! 1

この謎が解けるか?: 鮎川哲也からの挑戦状! 1